刻とともに美しく変化する庭のように。
明治より続く、伝統の技と現代の感性を融合させた作庭を続ける庭勘の歴史をご紹介いたします。
慶応元年(1865年)生まれ。父・卯吉は左官業を営んでいた。明治14年ごろより造園業を始める。
明治20年(1887年)生まれ。勘三郎の長男として生を受け、学校卒業後、家業を継ぐ。
大正5年(1916年)生まれ。林治郎の次男として生まれ、庭勘の家業を継ぐ。
昭和22年(1947年)生まれ。英二の長男として生まれ、昭和40年3月に家業を手伝い始める。
※昭和42年1月 有限会社庭勘に法人化
※平成11年8月 組織変更し、株式会社庭勘となる
庭勘は、代々現在の場所(浜松市中央区尾張町。大正14年以前は下垂町と呼ばれた。)で造園業を営んでまいりました。
戦前は、屋号で呼ぶよりも町名で呼び合っていたため、下垂という名称で、お客様や地域の方々から親しまれていました。
もともと個人邸の造園および管理(庭木手入れ)を生業としていましたが、4代目・鈴木榮治のときから公共工事の仕事も手がけるようになりました。
2004年の浜名湖花博、2009年の浜松モザイカルチャー世界博、2014年の浜名湖花博10周年記念等、
大規模な工事にも参加し、広く公共工事と個人邸やマンションなど民間工事の仕事をしています。
四季を通じた庭の管理は、庭師としてのキャリアが10年あったとしても
10回しか経験できないことからも分かる通り、庭づくりの仕事はとても奥深く、難しい仕事です。
一生勉強といわれる庭師の世界で一人前の親方となるまでには長い年月がかかります。
20代から70代まで幅広い年代の職人が活躍している庭勘には、個人邸から公共工事まで幅広い現場で庭づくり
を学べるだけでなく、
親方衆から若い世代へと庭づくりの技術と匠の心を受け継ぐ環境が整っています。
例えば伝統の技を受け継いできた庭勘の技術力を説明する上で、
よく私たちがお話しするものに「松の木の管理」と「水琴窟」の話があります。
先端が尖った葉を持つ松の木は、多くの庭師が軍手などをして管理します。
一方、庭勘の職人たちによる松の管理は基本的に素手で行います。
細く繊細な葉や枝を持つ松。軍手をするとどうしても繊細な管理が妨げられ、松の葉先が折れるなどして、
管理後に松の葉が茶色く枯れてしまいます。
こうしたことがないようにという心遣いは、松の管理以外にも細部にわたるまで息づいているのです。
日本庭園の粋な装飾の一つとして、江戸時代に盛んに用いられていた水琴窟は、
庭の手水鉢の近くに瓶を埋め込み、
地中に小さな空洞をつくることで水の反響音を楽しむ技術です。
水琴窟の作り方は欧米化の波が押し寄せた明治に次第に廃れ、古くからの作り方を知る庭師はほとんどいなくなってしまいました。
水琴窟が1980年代に再び着目され、多くの庭づくりで用いられるようになるまでの間、
庭勘の庭師たちの間でしっかりと水琴窟の技術を受け継いでまいりました。
現在でもその技術は継承され、インターネットなどで見られる水琴窟の作り方とは異なる
庭勘独自の門外不出の技術として現代の庭づくりでも使われています。
作庭の世界において、庭が完成するのは造園工事が終わったときではありません。
命ある庭木や植物たちは、植えられた庭で日照・土壌など様々な環境要因に合わせて命を紡ぎはじめます。
そのため3年、5年先、ときに10年先の庭の姿を想像しながら庭づくりや庭の管理を行うことが求められるのです。
悠久の刻とともにその姿を変えていく庭は、まさに生き物。
人工物ではない生命体を相手にする庭師の仕事は数字では到底表しきれない感性と技術、経験が求められます。
庭勘の庭師の中には、生き物である庭木を知る上で欠かせない植物学を学んだものもいます。
確かな技術・感性・知識に裏付けされた庭師が、お客様のくらしに寄り添う庭を年月と寄り添いながら施工・管理してまいります。
移ろいゆく庭を相手にする仕事、という意味では、お客様と庭勘の本当のお付き合いが始まるのは、造園工事が終わったときからなのかもしれません。